『五等分の花嫁』は春場ねぎ先生による漫画作品で、五つ子とその家庭教師を務める主人公によるラブコメディで、 2019年1月よりアニメ第1期、2021年1月よりアニメ第2期。そして2022年5月20日よりアニメ最終章として劇場版が公開されました。
今回は劇場版五等分の花嫁より五つ子の父親である無堂先生についてお話していこうと思います。
映画五等分の花嫁で無堂先生が登場
アニメの最終章であり、漫画の最終巻までを描く劇場版『五等分の花嫁』ですが、劇場版には物語を先に進める為のキーマンとして五つ子の実の父親である無堂先生が登場します。
この無堂先生、次項から詳しく書いていきますが、中々のクズっぷりで「無堂出るから劇場版はなあ」と言った意見が出るぐらいのヒール役になります。
しかし、無堂先生のお陰で五月の夢への決意が固まるなど物語のキーマンとしての重要な役割も果たすので、そこまで悪くは無いのではいかな?と思います。
無堂先生は五月に講師の道を辞めるように言う
読み手によっては悪い人に見えないと、言われるなどイマイチ掴みどころがない無堂先生。原作では、五つ子達に会うために文化祭にやってきて他の四姉妹には会わずに五月だけに接近し、五月の夢であるお母さんと同じ先生になるという夢をあきらめる様に言うなどいきなり五月の心を折にかかります。
しかし、ただ単に諦めろと言ってるわけではなく、あくまでも推測になってしまいますが、母である零奈の面影がある、五月が母と同じ教師になるのはあまりにも亡き母親に固執し過ぎて父親として見ていられないあるいは、捨てた父親だが、五月に夢を諦めさせることで、父親として子に新しい道を示したという自己満足を得たかっただけなのでは?と思います。
無堂先生の声優斉藤次郎や下の名前が仁之介と映画で判明
父親失格や一言クズなど兎に角酷いことしか言われない無堂先生ですが、そんな無堂先生を劇場版で演じているのは、バイオハザード・オペレーション・ラクーンシティでベルト・ウェイ役を演じ、他にも多数のアニメで脇役などを演じている、斉藤次郎さんが演じています。
そして、劇場版では無堂先生の名前が『仁之介』である、と言う事が明らかになりましたが、原作コミック上では登場から退場まで無堂という苗字以外明らかにされておらず、名前については制作陣が勝手に名付けたor原作者の許可を得て名付けたアニメオリジナルな可能性が高いと思います。
無堂先生はクズと言われる理由
さて、父親失格、屑親、単なるクズなどSNS上ではクズを言う評判以外出てこない無堂先生なのですが、では何故そこまで読者に毛嫌いされてクズだといわれるのかと言う理由ですが、五つ子に会いに来たので捨てた事を詫びるつもりなのかと思いきや、五月のみに接近していきなり五月の夢を圧し折るような真似をする。
そして、最大のクズっぷりはやはりこれで、五つ子の母親である中野零奈が無堂先生に憧れて教職に就き、同僚になり二人の関係が急接近して結婚するも、五つ子が出来たと知るや否や家庭を支えられる自信が無いと身ごもった零奈を捨てて蒸発する。
以上の事から無堂先生の事を擁護する声より、クズと呼ぶ声が多いのも納得がいくと思います。
無堂先生はなぜ零奈と結婚できた?
そのクズっぷりから読者の憎悪を一心に背負っている無道先生。では、何故無堂先生は零奈と結婚して、五つ子が誕生する事になったのでしょうか?
そのきっかけとしては、零奈は無堂先生の教え子でした。そして、無堂先生に憧れた零奈は五月が母の背中を追って教職に進もうと思っているのと同様に無堂先生の背中を追って教職の道へ。その後、教師になった零奈と無堂先生は教え子と教師ではなく同僚の関係に。ここで二人の心境に変化をもたらす何かがあったと思われます。
その後、無堂先生との間に子供(五つ子たち)が出来た事が発覚するも、家庭を支えられないという身勝手な理由で蒸発。ですが、結果として零奈が無堂先生に憧れて教師になり、同じ職場にやって来たので結婚できたといえると思います。
無堂先生と四葉と似てる?
中野零奈と結婚し、五つ子が生まれる前に捨てて蒸発した無堂先生ですが、一部では無堂先生と四葉が似ていると言われることがあります。いったい何故なのでしょうか?
理由としては、原作コミックの各所に散りばめられた五つ子と無堂先生の親子関係に関する伏線にあると思います。例えば、四葉と無堂先生の両方が回答に詰まる事などを言われると物を渡して許しを請うや何かあると直ぐに泣いてやはり許しを請うなど、四葉にはところどころ無堂先生を思わせる行動が見られます。
そういったところが、SNSを含むネット上で無堂先生と四葉が似ていると言われるところなのではないかと思います。
まとめ
ここまで劇場版五等分の花嫁に登場する五つ子の父である無堂先生についてお話してきました。
この記事の内容の通り、どうしようもないクズっぷりを発揮していますが、それでもその行動のお陰で五月が自らの決めた道を歩む覚悟を決めたりと物語の進行に多少なりとも寄与しているので、物語の進行役としては必要なのではないかと思います。